沙翁酔人問答 その一

沙翁酔人問答その一

寺島悦恩

酔人1 赤とはどういうものかね。マチスのあの鮮烈な赤は本当に惚れ惚れする。あの赤は、寝ぼけて死に絶えてる、この俺の頭をたたきのめし、目覚めさせてくれる再生の色だ。おまえとの酒はいいね。さてと、めったにおまえと会ってもこういう話はしてこなかったんだが、何の気まぐれか、沙翁、シェークスピアについて専門家のおまえに聞きたくなった。久しぶりにこのあいだ、おまえが演出した『リア王』を見せてもらったけれど、実に良かった。しかしだぞ、グロースターが目ん玉をくり抜かれるところなぞ、もっと血だらけにしろ。あれは残酷劇だぞ。俺は悪趣味だからな。こういう時は、ブラディメリーを注文する。おまえにはホワイトレディを注文しよう。

酔人2 佞弁による王国分割などというとんでもないリアの行為の不条理が事のはじまりさ。absurdityだよ。どう考えたって首をひねらざるをえない行為だけれどね。耄碌といえばそれまで。しかしだよ。ある絶大な権力をもつ人間の愚行、いやむしろ愚考というべきかな、そいつが、ある世界を徹底的に破壊しつくしてしまったということだよね。ねえ、すぐそこだよ、ここ一〇〇年間にだってある。長い人間の歴史にはもっともっとある。そうした悪夢の歴史を沙翁は描いてくれたんだ。いやはやすごい象徴劇だよ。しかし、どこをとってみてもすばらしい。ただただ舌をまく。リアの行為の不条理に加え、脇筋に、悪辣極まる庶子エドモンドの、とてつもない嘘に親父のグロースター伯がまんまとだまされるという、これまた、実に首をかしげる不条理を同時進行させていく。しかも、沙翁の芝居はおそろしくテンポが早い。

酔人1 俺はね、残酷極まる肉団子の『タイタス・アンドロニカス』がお好みなんだ。俺なぞにはな、ゴネリルもリーガンもいい。ああした悪女が俺の好みだ。だからな、おまえの好きそうな、あの清らで可憐なディアナそのもの、末娘のコーデリアの行動な。あれは実にわからん。

酔人2 コーデリアは文句なしにいいですよ。あたりまえですよ。しかし、実ににがい世にも美しき道化なんですよ。彼女は沈黙などしていませんからね。佞弁など使えるものかと言ってのけるんだ。nothing と言っちゃうんだからね。あの場面、コーデリアは、ずいぶん饒舌ですよ。挑戦状をたたきつけたって感じ。だって、考えてみれば、国王の前での所作としちゃ、彼女のやってることは一種のマナー違反ですよ。でも、それは承知で、マナー違反しなければならないほどひどい提案だと言っている。リアだって、コーデリアの言葉のにがさがわかってくる。といって、「おまえよりあの野蛮なスキタイ人や己の食欲を満たすため親の肉を食う奴らの方がまだましだ」とリアは言うんだから、あまりにひどい言い草だけれどね。ただ、スキタイ人、原文じゃあScythianなんだけれどね、ぼくには、あの言葉には、どうもscytheが入っているとしか思えないんだ。つまり、大鎌だ。あの言葉にはもともと切るという意味がある。ざっくり言っちゃえば、リアは、うるさい、おまえ、はさみ女めと言っている。皮肉なことに、実はリアの方がはさみ男なんだ。こう思えるからますます舌を巻くと言ったわけさ。

酔人1 なるほどな。コーデリアをそう解するわけか。リアは無理矢理国家をずたずたに3分割しようと途方もないことを考え出した阿呆だからな。そして、惨めな2分割から狂乱の破滅へといたるんだ。だからな、もっと残酷劇にしろ。

酔人2 お説ごもっとも。しかし、とにかく、コーデリアはいい。しかも鋭い。むろん、彼女は純粋で、清らで、何ともすばらしい女性ですよ。でも、にがい、とても可憐な道化なんだ。もともと、コーデリアと道化は二役だったんだからね。二人の姉の、陰謀だらけの腐ったはらわたから、いやしい舌から飛び出す佞弁そのものをぐさりぐさりと切っていくんだ。お父様を一途に愛するなどとおっしゃるなら、なぜ結婚などできたのですかとやっちゃう。黙っていられませんとね。結婚によって愛というものは分割されてしまうのではありませんかと問うんだから、これはすごい。リアの狂える王国分割を逆手に一本も二本もとったということなんだがね。しかし、どう狂おうと相手は国王だ。さあ、どうなることか。おそろしい破滅がやってくるわけだ。

酔人1 なるほど、なるほど・・・・それにしたって、もっともっと残酷劇にしろよ。酔人2 それがなかなか難しいんだよな。酔人1 ところでさ、老いたるリアは白内障か緑内障にでも悩んでいたのかね。

酔人2 はは、君らしい。そりゃ傑作な疑問だ。君のお好きなゴネリルの佞弁の不思議な表現だね。「ものを見る視力よりも、自由でのびやかな生活よりも」というところを君は問題にしてるんだな。私の視力がなくなってもいい、お父さまにこの両の目を差し上げたいくらい。それほど愛していますわという佞弁ね。そして、あれだね、忠節の士ケント伯がリアの愚行を止めに入るところもね。「目を見開いてもっとよく見ていただきたい。せっかく悪い病気を治してあげようというのに、私という医者を殺したければ殺して、病気に礼金をあげなさいませ」だ。そいつと関連してね、ぼくがほとほと感服するのは、悲劇の最終場面さ。まもなく死へといたるリアがさ、愛する末娘コーデリアの遺骸を抱きながら、こういうだろう。「娘は土くれのように冷たくなってしまった。だれか鏡を貸せ。息で鏡の面が曇るか汚れたりすれば、それが生きている証拠だ」とね。ここで沙翁はlooking-glass を使っている。mirrorじゃあないんだ。おそらく、ここでは、沙翁は間違いなくlookingという言葉を使いたかったんだと思うよ。見ることに関わる長大な、陰惨極まりない悲劇。言葉にだまされ続ける間違いの悲劇の最後に、lookingなる言葉が必要だったんだ。見ることのできなかった男たちが産み出す悲劇。しかし、心の底から父王を愛していたはずのコーデリアがいまや殺され、その冷たい遺骸に向い、looking-glassを持ってこいとは、何とむごい、皮肉な言葉であるだろうか。

酔人1 だからさ、もっと残酷劇にしろよ。酔人2 君は近いが、ぼくは終電に乗らなくっちゃ。明日早いんだ。悪いが、先に失礼する。近いうちに、この話の続きをやろう。きみが注文したホワイトレディ、まだ口にしていない。きみ、飲んでってくれよ。